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2006年07月16日

『権力はいかにしてつくられるか』(入谷敏男)060715読了

 私は学生時代から「国家論」と「組織論」に興味があります。国家論は社会システム論ですし、組織論の要諦はリーダー論です。私は学者ではありませんので、ときおりこうした文献を読みながら、毎日の自分の実践を第三者的にもみているわけです。本書も、私の関心のあるリーダー論の観点から読みました。

 「権力」は支配する側の力であり、それに対応する支配される側の存在が不可欠となります。人間は、それぞれにその人にしか備わっていない能力を持っているにもかかわらず、かつ、バリアーがあるにしても、その能力を発揮できるはずであるにもかかわらず、なぜ、権力をもつ支配する側と権力なき支配される側に分かれるのでしょうか。ことに多くの人々が支配される側にいて平気なのでしょうか。
 このことは社会システム論としての機能分化の必要性から論ずることができますが、それは形式を述べたものにしかすぎません。大量の人々の直接参加の民主主義ができないから間接民主主義が形成され、権力を集中させないために三権分立をおこなう、などということがこれにあたります。
 支配と被支配の関係は、2つの分野から解析されなければならないでしょう。1つは、被支配の側に身を置くほうが気楽でよいという人々が多く存在すること、2つは、人間の中にあり「支配欲求」の存在です。この支配欲求についての論考は多いのですが、被支配に身をおくことについての論考は少ないが、本書はそれを整理しています。
 では、人が誰かに支配されるということはどういうことでしょうか。それは、支配者に対して自らの劣等性を認めることであり、それを前提として服従することを明らかにすることです。劣等性を認めることにより、支配者への反抗心のないことを明示し、かつ、その庇護をうけようとするのです。
 この人間のもつコンプレックスの根源は、動物との比較から来ているという説があるようです。たしかに、人間という存在は動物に比較すると中途半端な存在であり、他の動物コンプレックスの中で何百万年も生活したのでしょう。
 身近な猿と比較しても、脳が大きくなったばかりに木へ登ること、木から木へ飛び移る能力において欠けることになりました。鹿や馬と比較すれば走ることが遅いのです。ライオンや虎と比較すれば闘争力においてはかないません。また鳥のように空を飛べるわけでもありません。ですから、子どもや親しい人が動物に襲われ、どうしようもすることができなかったことに幾度も遭遇したでしょう。ですから、槍や弓や落とし穴などの道具の発明をしていくのですが、それにもかかわらずコンプレックスから解放されることはなかったでしょう。
 このような起源があり、人はコンプレックスを持ちながら生きていくことに不思議さを感じないようになってきたのでしょうか。
 本書では、こうした極限にある様態として、シリル・パーキンソンの劣嫉症(インジェイテイテス)についてつぎのような紹介をしています。
 「パーキンソンは、組織の麻痺がおこる第一の段階として、前回に処理された通りに動く、馬鹿で言うことをよく聞く人々の集まりを組織の症候としてあげ、その結果、第二流の人物が昇進し、それ以下の人物が昇進し、それ以下の人間は第三流または四流の人物で満たされるようになり、すべての人間が馬鹿になるための競争をおこし、最後には、上から下までひとかけらの知性も見出にされなくなった時に、その組織は昏睡状態となり、二十年間つづく場合もあるが、やがては自然崩壊に導くことがあることを指摘した」(「パーキンソンの法則」)
 皆さんの近くにある団体で、このような状況に陥っているところがあるのではないでしょうか。


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